山内一豊 の 弟  康豊(やすとよ)の4男 一唯(掛川城に生まれる)1600年

初代領主(本人) 山内一唯(かずただ) 1623年元和2年~ 
2代目領主 息子  山内一輝(かずてる) 1661年寛文3年~
3代目領主 次男 山内一俊(かずとし) 1664年寛文6年~
4代目領主 一俊の長男 山内豊房(とよふさ) 1675年~1689年→(土佐藩主)

bosyo
山内一唯の墓所




山内一唯

ここで一唯について 1600~1663指扇 山内家初代領主 通称伊豆の守・豊前の守(ふぜんのかみ)。藩祖一豊の弟康豊の4男として慶長五年 掛川に生まれる、没したのは寛文三年 年は64歳(戒名 冷伯院殿釈風残大居士) 兄は2代藩主忠義。 元和2年(1623)旗本に取り立てられ、武蔵指扇に3000石を拝領した 2代目一輝(一唯の長子で寛文三年から領主に、しかし不幸にも病にて寛文四年に没している。(墓所は浅草の報恩寺に葬られています) 3代目一俊(一唯の次男 兄の一輝が若死したので三代目領主となる。しかし一俊も延宝三年27歳で没した。彼も浅草の報恩寺に葬られています。)

4代目当主 豊房 4歳の時に指扇領主となる。豊房は武芸にも優れ 又 歌にも鞠にも堪能であり 本家の土佐でも注目の人であった。)一方 四国 土佐藩では 藩主 豊昌に子が無く 豊房は4代藩主 豊昌の養子になって5代藩主となる。豊房の弟 豊隆も土佐藩6代目藩主となる。指扇3000石の青年旗本が一挙に 四国土佐藩25万石の大名になって しまったのです。(すごいと言うか破格の出世) 元禄15年池田綱昌の子女と結婚 (時まさに 忠臣蔵の時代) 指扇を引き払うとき 豊房は領民に貸し与えていた1500両を 取り立てることもなく 領民に給じられたことに 領民はことのほか感謝したんだと。

しかし それほど感謝したのなら なぜ陣屋を保存しなかったのか? 

山内家の本家は 土佐山内家 分家は数が多く  麻布山内家、指扇山内家、後中村山内家、備中中村山内家、本町邸山内家 等 10箇所  幕末に活躍した(現在NHK大河ドラマ坂本龍馬にでてくる近藤正臣役)山内容堂(隠居後)も分家の出 15代藩主豊信となり維新に貢献しました。

(補足 家康が江戸幕府を開いたのが1600年  忠臣蔵が元禄15年1702年) (零れ話:時の領主が家臣の奥様を 横恋慕し・・・・・その家臣とご内儀 は・・・・ 法光寺 に埋葬されているとのこと いつもの時代も あるのですね~~~また 法光寺の南東に 阿弥陀寺という ちいさな お寺があります ここに 一唯の家臣 土州 本山氏伊兵衛茂正 のお墓があるとのこと) 

nakakugi0002
山内一唯の墓所

kazutada-bosyo
妙玖寺 山内一唯の墓所

tatekanban