さしおうぎ歴史散策の会

指扇地区の神社、お寺、祠、お地蔵様などの歴史、言い伝えを教えてください。

2013年06月

三京かまぶろ温泉

三京かまぶろ温泉  天武天皇が背中に流れ矢を受けて、治療をした京都のかまぶろ温泉が発祥。


秋葉神社(1378年了庵禅師の創庵 火伏(ひぶせ)の神 例大祭4月18日、12月18日秋葉ささら獅子舞マップ参照)この神社は関東地方でも 相当 名の知れた社で 北本 鴻巣 伊奈 地方の古い道しるべに 「これより秋葉道」などの道標が立っております。

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関東総社 秋葉神社


また 今では神社の前 は住宅が建っておりますが明治、大正時代は屋台が出てたいそう賑わっておりました。近くに宿坊があったりしたそうです。

秋葉天神社(元禄2年創建 忠臣蔵(赤穂義士)の時代  学問の神様 菅原道真公を祀ってあり) 朱塗りの鳥居は立派です 今は秋葉中店の鈴木様が護って居られます(2007、6)これからの入学試験には ぜひ

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秋葉天神社 2007.6

中釘地区 浄土真宗 中釘山 妙玖寺山内院 (桜がとても奇麗です 山之内一豊家 家臣団の墓 もともとは果成寺といったが 母 妙玖院の菩提寺であったため寺号を改めた寛文3年6月27日死去 母と同じ同寺へ 葬られた) 山内一豊の甥で山内一唯(かつただ)一族の墓 元和9年(1623年)将軍秀忠から指扇領3千石の地を賜りこの地を支配その後4代豊房の時に 土佐へ移り この地は天領(幕府直轄)となる。  墓所には「丸に三つ柏」の家紋

中釘陣屋

中釘陣屋(現在は秋葉神社敷地北西の角あたり 温室が数棟建っており その場所が陣屋跡だったらしいのです。陣屋の遠藤家)想像するに 3000石となると 110m四方60~70坪ぐらいかな 家臣は20人~30人ぐらい。 

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中釘陣屋?(想像写真)

山之内家の陣屋ともなれば  2年ほど前に旗本に格上げされたのです、 左の写真の様であったのではないかな ・ ・ と思うのですが(私のひとり思いです また その頃の 陣屋の絵図面 内堀跡 支柱跡 など 陣屋に関する物 人物名簿 役職 だれか 文献等 ありましたら 教えてください。県の博物館には無いとの返事です。) いかがですか。賛成 反対 いろいろ 反対意見 募集します 又四国の土佐との友好親善が成ったらいいな。 

 (ひとつ 質問 山之内 山内 やまのうち やまうち どちらが正しいのですか? 

また 現在はだれが お墓を お守りしているのか『4、5年ぐらい前までは土佐から墓参りが定期的に来ておられたとのこと』) 土佐山内氏は宗家(本家)が「やまうち」、支封(分家)は「やまのうち」を称した  と記録にあるそうです。 


秋葉天神社の周辺には 刀鍛冶屋 桶屋の 遠藤家(現在はプラスチックの成形会社 遠藤精機製作所となっております ) 当時はこの辺りはとても栄えていたそうです 神社のお参り信者のための 宿 食事処 遊郭 駕篭や ばくろ馬子 などもあったらしいです 。


陣屋から西へ葦のはえる低地を過ぎると「辻の庚申塔」高さ2,6m(大宮でも最大)があります。市指定文化財 またこの北に「穂積(ほずみ)神社」があり 社殿には絵馬、奉納額が飾られております。太鼓、笛、琴、琵琶などお神楽道具を描いたヨコ2m30cmタテ78cmの額は明治30年に伊勢神宮に参拝の、神楽を奉納した記念の物です。また日露戦争の戦勝祈願ガラス絵馬、石川氏奉納の丸絵馬等 変り種が奉納されております。

また当地では「穂積の囃子」が伝えられております。また近くの荒川土手には 今も山内一唯が構築した 土手が残っております、後年明治30年その土手の上に 土手を作り いかに先年から荒川の氾濫に対処した事がうかがわれます。


峰岸の石塔婆塚  宝来 福寿庵の百観音 元禄13年(西暦1700年)?建立 西国、坂東、秩父、の各霊場から写し祀った百観音を中心に中尊の如意輪観音像など 103体の仏像郡 度々の洪水で大半が流出されその度に補填されたとのこと現在も念仏講が行われております。

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福寿庵 正面(平成20年)

また 宝来明神宮には山之内一唯の家臣が新田開発の成就を願って銅鏡(市立博物館寄託)が奉納されました。平成22年11月7日(日曜日) 9:00~14:00 宝来明神にて公開展示をおこなわれました。またここ宝来神明宮はさいたま市によるとー神明宮ーでなくー神明社ーとなってます、銅鏡にも神明宮と表記してあります。

銅鏡

昨年11月に 宝来の神明宮に於いて 山内一唯の家来が 新田開発を祈って “銅鏡“を奉納されました。現在は市の博物館に展示されております、今回は特別に 神明宮に帰って来ました、そこで 私 がちょっと疑問に思った事があります。銅鏡の表書きにも 神明宮と彫刻されてます。市の案内状には神明社になってます 社 と宮 の違い を 報告したいと思います。平安時代に編纂された「延喜式神明帳」では宮号がゆるされていたのは、伊勢大神宮など11社のみとされ、宮号は特別な社格とされていました。

江戸時代には八幡宮や天満宮などが次々に勧請され、神社の社格に寄らず、宮号が使われるようになってきました。伊勢神宮を勧請した神明宮も同様です。明治時代に入ると、一般的に(神)社号が定着し、宮号は後続を祀る神社や特別の由緒をもつ神社のみに使われるようになりました。

宝来の神明社の銅鏡に銘文は「宮」と記載され、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」にも「宮」と記載されていますが、明治前期に編纂された「神社明細書」には「社」と記載されています。このようなことから、宝来の神明社は近世には「神明宮」と敬称されていたものが、近世に入り、神仏分離等の明治政府の宗教政策の影響をうけることにより「神明社」の名前が定着したものとおもわれます。
(さしおうぎ歴史散策会より、指扇餅つき踊りマップ参照)

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平成22年11月7日公開の宝来神明社銅鏡

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平成12年2月10日宝来 小林氏所蔵

水判土観音

水判土観音(戦国時代 岩槻の太田氏の陣屋になっていたため北条勢の襲撃をうけ 消失。江戸時代になって川越中院の末として寺領10石の朱印状を与えられ、再興される、ここには八百比丘尼伝説の碑もある。)


東照宮(西光院から移されたのかな?) 足立神社(北足立郡との名前との・・1912年植水地区20社が合祀)の日清戦争出征兵士の慰霊碑  馬宮の氷川神社(神社が二つ並んで 二つ宮) 土屋 金山神社(かなさん神社?)船渡橋の渡船場『昼間の渡し』 現在自動車教習場 (旧16号線 上江橋 あたりの 渡し舟の資料を求めます。)

 昼間山西光院(東照宮 昼間修二氏所蔵の東照宮の扉)(天正年間 徳川家康が川越から岩槻へ向かう途中荒川を 夜 渡ったときの名主様が 篝火(かがりび)を炊いて足元を照らし 昼間の様な明るさに心を動かし 昼間 の姓を賜わり 渡し舟も「昼間の渡し」と命名されております)村人は渡し場付近に東照宮、権現堂を祀り家康公の徳を偲んだといいます 今は無き境内には家康が休息のため腰掛けた老松「御腰掛の松」があったといいます。

清河寺 大ケヤキ(落雷が原因で今では全容は見えません 代々鎌倉公方 足利氏の崇敬をうける 瓦 の家紋等 太田氏の文献も数多く所有 現在 県の文書館に寄託とのこと まだあるかな)また清河寺を水源とする 滝沼川 指扇中学校あたりで 今でも 大雨による冠水 で 道路が見えなくなってしまいます。 琵琶島氷川神社(赤羽根)6月にはアジサイ祭り 


その真ん前に小さな山がありその頂に祠(ほこら)があります、荒沢不動石仏(奥州出羽山 梵字不動尊)では地域の12名ほどで講 を結んでいます。

花の丘公園の東 聖学院大学から東へ500m市境を流れる鴨川の斜面の上 三貫清水 太田道灌の井戸

川越線

川越線(明治36年川越馬車鉄道として発足したが実際に運行したかな?)川越電気鉄道の前身 川越電灯の合併 大正3年神流川水力電気を合併武蔵水電と改称 旧16号線の路面と並走しての電車 このお陰で大宮に電気が通りました。 但し この明治の時代に国道16号線という 国道があったのかな? また 商店街を通らずに この辺鄙な場所を通らなければならなかったのかな、

また 西武大宮線に移行するのは川越電鉄 と西武大宮線は 一時 併走していたのか 川越電鉄が バス運行 に変更になった時から・・・いまでも 当時の荒川鉄橋の橋桁が荒川の川岸に ポツンと 残っています。川越が出たところで 先日川越藩火縄銃鉄砲保存会の会長さんに おはなしを聞く機会に恵まれました。幕末 江戸のお台場の守護を命ぜられた川越藩は鉄砲隊を組織してこの任にあたりました

(零れ話:ちんちん電車の通っていた頃 宝来 峰岸 領別所あたりでは大麦の栽培が盛んで 各農家で 脱穀をしておりました、それは モーターを使いますが、その過熱によりこの辺りでは 火事が頻繁におこっていたそうです。また 現在の駅辺りは とても寂しいところだったらしくて夜の一人歩きは とても怖かったそうです、時の駐在さん でさえ 夜の外出は控えたそうです。)


おおなりーなみき(旧16号上小町西野時計店あたり?)ーうちの(旧16号線かっぱ寿司あたり)ー ごみかいと  ーごうど(合土 旧16号金子酒店前)ーたかぎ(旧16号線ピゼリアあたり)ーくろすーぬまはたー かわごえ


以上が各停車場です 現在は ごうど の地名は 指扇村が大宮町との合併の時廃止されて ありません 
(ごうど の金子酒店さんの祖先 は幕末の戊辰戦争で函館で 新撰組の土方歳三 陸軍奉行 と 共に戦いました。 西南戦争 日清戦争 まで陸軍に籍を置き 陸軍中将まで行かれた 子孫です 現在 NHK 「坂の上の雲」にも出てくるかな)
また たかぎ の地名も飛び地になっており ごみかいと は 現在は もっと 南 だと思います。

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川越馬車廃業記念 大正8年撮影


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川越電気鉄道 川越電気鉄道


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大宮上小町付近 通称ちんちん電車昭和15年

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