さしおうぎ歴史散策の会

指扇地区の神社、お寺、祠、お地蔵様などの歴史、言い伝えを教えてください。

水判土観音

水判土観音(戦国時代 岩槻の太田氏の陣屋になっていたため北条勢の襲撃をうけ 消失。江戸時代になって川越中院の末として寺領10石の朱印状を与えられ、再興される、ここには八百比丘尼伝説の碑もある。)


東照宮(西光院から移されたのかな?) 足立神社(北足立郡との名前との・・1912年植水地区20社が合祀)の日清戦争出征兵士の慰霊碑  馬宮の氷川神社(神社が二つ並んで 二つ宮) 土屋 金山神社(かなさん神社?)船渡橋の渡船場『昼間の渡し』 現在自動車教習場 (旧16号線 上江橋 あたりの 渡し舟の資料を求めます。)

 昼間山西光院(東照宮 昼間修二氏所蔵の東照宮の扉)(天正年間 徳川家康が川越から岩槻へ向かう途中荒川を 夜 渡ったときの名主様が 篝火(かがりび)を炊いて足元を照らし 昼間の様な明るさに心を動かし 昼間 の姓を賜わり 渡し舟も「昼間の渡し」と命名されております)村人は渡し場付近に東照宮、権現堂を祀り家康公の徳を偲んだといいます 今は無き境内には家康が休息のため腰掛けた老松「御腰掛の松」があったといいます。

清河寺 大ケヤキ(落雷が原因で今では全容は見えません 代々鎌倉公方 足利氏の崇敬をうける 瓦 の家紋等 太田氏の文献も数多く所有 現在 県の文書館に寄託とのこと まだあるかな)また清河寺を水源とする 滝沼川 指扇中学校あたりで 今でも 大雨による冠水 で 道路が見えなくなってしまいます。 琵琶島氷川神社(赤羽根)6月にはアジサイ祭り 


その真ん前に小さな山がありその頂に祠(ほこら)があります、荒沢不動石仏(奥州出羽山 梵字不動尊)では地域の12名ほどで講 を結んでいます。

花の丘公園の東 聖学院大学から東へ500m市境を流れる鴨川の斜面の上 三貫清水 太田道灌の井戸

川越線

川越線(明治36年川越馬車鉄道として発足したが実際に運行したかな?)川越電気鉄道の前身 川越電灯の合併 大正3年神流川水力電気を合併武蔵水電と改称 旧16号線の路面と並走しての電車 このお陰で大宮に電気が通りました。 但し この明治の時代に国道16号線という 国道があったのかな? また 商店街を通らずに この辺鄙な場所を通らなければならなかったのかな、

また 西武大宮線に移行するのは川越電鉄 と西武大宮線は 一時 併走していたのか 川越電鉄が バス運行 に変更になった時から・・・いまでも 当時の荒川鉄橋の橋桁が荒川の川岸に ポツンと 残っています。川越が出たところで 先日川越藩火縄銃鉄砲保存会の会長さんに おはなしを聞く機会に恵まれました。幕末 江戸のお台場の守護を命ぜられた川越藩は鉄砲隊を組織してこの任にあたりました

(零れ話:ちんちん電車の通っていた頃 宝来 峰岸 領別所あたりでは大麦の栽培が盛んで 各農家で 脱穀をしておりました、それは モーターを使いますが、その過熱によりこの辺りでは 火事が頻繁におこっていたそうです。また 現在の駅辺りは とても寂しいところだったらしくて夜の一人歩きは とても怖かったそうです、時の駐在さん でさえ 夜の外出は控えたそうです。)


おおなりーなみき(旧16号上小町西野時計店あたり?)ーうちの(旧16号線かっぱ寿司あたり)ー ごみかいと  ーごうど(合土 旧16号金子酒店前)ーたかぎ(旧16号線ピゼリアあたり)ーくろすーぬまはたー かわごえ


以上が各停車場です 現在は ごうど の地名は 指扇村が大宮町との合併の時廃止されて ありません 
(ごうど の金子酒店さんの祖先 は幕末の戊辰戦争で函館で 新撰組の土方歳三 陸軍奉行 と 共に戦いました。 西南戦争 日清戦争 まで陸軍に籍を置き 陸軍中将まで行かれた 子孫です 現在 NHK 「坂の上の雲」にも出てくるかな)
また たかぎ の地名も飛び地になっており ごみかいと は 現在は もっと 南 だと思います。

kawaden003
川越馬車廃業記念 大正8年撮影


kawaden001
川越電気鉄道 川越電気鉄道


seibuoomiyasen
大宮上小町付近 通称ちんちん電車昭和15年

SL

平成20年8月12日火曜日 午前11時ごろ 花園町の小学校近くで 踏み切り待ちをしていたら 目の前を SLが 通過していきました 驚いたのなんの 目の前をSL(デゴイチかな)が通るなんて

SL

上尾清真寺

上尾平方 立派な山門 上尾市の文化財の仏様の清真寺(ここの墓地はすべてが 南向きに立ってます 非常に珍しい?)だいぶ前ここの住職 平川先生(原市中学 教頭時代) とは度々お会いできたことを感謝しております。

seisinji
上尾清真寺


清真寺から北へ 平方の公民館前 に観音堂があります もともとは正覚寺というお寺(天台宗)が北側にあって 明治初年に廃寺となってしまい この お堂だけが残りました、ここに「森 朴斎」という人の墓と碑があります。この人は弘化年中 1844~48 といいますから江戸時代末期 平方の名主 永島太重朗の家に足を留めた旅人 文人墨客 諸国行脚の人が その人 森 朴斎 です この人はもともと桑名藩の医師であったそうな 正覚寺では寺子屋 の遺跡として1700年ごろから・・・・・

この正覚寺の住職 純智(じゅんち)和尚  正徳3年(1713年)没 卵型の墓で6角形の台石には「施主 平方手習子五十三人」と記されてます。歴代住職の墓の中で 手習子で施主になるのは 寺子屋をしていたのだろうと推測されます このような 筆子 手習い子 達が師匠を慕って建てた墓や記念碑を 「筆子塚」 と言います。


平方船着き場の遊郭 橘神社(どろいんきょ)馬蹄寺 (大きなモッコクの木が有名ですが 墓石の中に 江戸時代の女性の名前の多く残る墓石 無縁仏 年齢8歳 12歳 等々 若くして死去 WHY 出身地は奥州 東北地方が多いということは 口減らしで・・に?)


bateiji
上尾 馬蹄寺


また 平方 堤崎にある車地蔵 は江戸時代の隠れキリシタンの十字架・?との説も ウキウキ 等々謎が謎を? ? ? ? ? ? ?

指扇散策

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


指扇散策コース 1


書成 前集合 → 琵琶島氷川神社→赤羽根荒沢不動→ 県指定遺跡大塚古墳→養福寺(童の道祖神)→ 小山本家酒造→ 永田家長屋門ささらこ塀→川越線路面電車(ごうど 合土)→ 焼き肉龍欄 解散(豚汁?の振る舞いが有ります)


※参加者全員に「散策1参加章」


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

散策コース 2

ロンシャン 前集合(お茶の接待)→ 奈良時代創建 さしおうぎ薬師福正寺→宝来 明神社 → 福寿庵の 百観音→ 金子山城→関東総社 火伏せの神 秋葉神社→元禄時代創建 秋葉天神社 → 妙玖寺(山之内一族 家臣団の墓所)→ 山之内家中釘陣屋跡→ 秋葉中店 解散 (豚汁?の振る舞いがあります)


※ 参加全員に「散策2参加章」


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



講師 元埼玉県埋蔵文化財センター
    元埼玉県さきたま古墳資料館副館長  昼間孝次 先生
    前川口芝園中学校 浦和学園元講師  梅原 武 先生


    会長 指扇歴史散策の会会長 日本お城研究会会長 日本スポーツ少年団Bコース指導者 元日本スポーツ少年団上尾指導者協議会副委員長 上尾市エキサイトスポーツ少年団リーダー会長 日本体育協会体力測定判定員 埼玉県子ども会集団指導者 埼玉県ヴィバルディ ブロックフレーテアンサンブル チェロ担当 埼玉県うどんを美味しく食べる会 曉泉氏 小林 暁雄

自己紹介

rekishi339

  • ライブドアブログ
指扇地区の神社、お寺、祠、お地蔵様などの歴史、言い伝えを教えてください