さしおうぎ歴史散策の会

指扇地区の神社、お寺、祠、お地蔵様などの歴史、言い伝えを教えてください。

土屋の永田家の長屋門

土屋の永田家の長屋門(伊奈氏の土屋陣屋)武家造りの簓子塀(ささらこ)永田家は明治期には高浜虚子(たかはまきょし)、徳富蘇峰(とくとみそほう)黒田清輝らと交友 がありました)時々時代劇の撮影に使用されます。昭和8年5月16日徳と見櫨花の兄徳富蘇峰は馬宮を訪れ「錦の原」と命名されました。


トップタイトルの写真が長屋門  現在長屋門・簓子塀の正面並びに構え堀については見学することができまさす。(平成22年11月 NHKドラマスペシャル「坂の上の雲」2は 日清日露の両戦争を 背景にドラマが進んでいきます、その中に 正岡子規、高浜虚子 の歌人が出てきます、この永田家もその辺にからんでくるかな)


[伊奈氏] 北条を攻略した徳川家康は、その旧領を拝受することになり、指扇の地の米蔵の管理に任ぜられたのが 伊奈忠次である 。家康について奥州征伐(おうしゅうせいばつ)に従った。その後忠次は 治水策で活躍 利根川を 東へ迂回させ、江戸を洪水から防ぎ潅漑(かんがい)によって水田地帯を安定させ 江戸をめぐる水路網を確立させた。 指扇 平方 川田谷 石戸 等の船着き場(この船着き場には当時 宿泊施設や飲食施設 金融機関 遊郭の様な施設があったとか?)を完成させた。その功績(こうせき)により 鴻巣 小室(現在の伊奈町)指扇 を領地とした](忠次は鴻巣の勝願寺に埋葬)

福正寺

平安時代 天長五年(828年)創建と伝える大宮で最も古い寺院のひとつです さしおうぎ薬師 福正寺(木本様 明治の頃には小学校も兼ねていた マップ参照)  

 指扇領別所には今でも古い神輿(みこし)が保存されているとのこと(ぜひ復活を希望します)。
また宝来には江戸時代 山之内一唯は寛文元年(1662年)家臣 高村権之丞及び息子の勝政が 新田開発の成就(じょうじゅ)を祈って奉納(ほうのう)したとされる(宝来神明社銅鏡)が市立博物館に所蔵されております。今年平成22年11月7日(日曜日) 9:00~14:00 宝来明神にて公開展示をおこないます。


高木自治会館 昔ここに法願寺(鎌倉時代から室町時代)というお寺があって(旧本願寺地蔵堂 南北朝時代木造地蔵菩薩座像 他)板石塔婆が市指定の文化財

三京かまぶろ温泉

三京かまぶろ温泉  天武天皇が背中に流れ矢を受けて、治療をした京都のかまぶろ温泉が発祥。


秋葉神社(1378年了庵禅師の創庵 火伏(ひぶせ)の神 例大祭4月18日、12月18日秋葉ささら獅子舞マップ参照)この神社は関東地方でも 相当 名の知れた社で 北本 鴻巣 伊奈 地方の古い道しるべに 「これより秋葉道」などの道標が立っております。

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関東総社 秋葉神社


また 今では神社の前 は住宅が建っておりますが明治、大正時代は屋台が出てたいそう賑わっておりました。近くに宿坊があったりしたそうです。

秋葉天神社(元禄2年創建 忠臣蔵(赤穂義士)の時代  学問の神様 菅原道真公を祀ってあり) 朱塗りの鳥居は立派です 今は秋葉中店の鈴木様が護って居られます(2007、6)これからの入学試験には ぜひ

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秋葉天神社 2007.6

中釘地区 浄土真宗 中釘山 妙玖寺山内院 (桜がとても奇麗です 山之内一豊家 家臣団の墓 もともとは果成寺といったが 母 妙玖院の菩提寺であったため寺号を改めた寛文3年6月27日死去 母と同じ同寺へ 葬られた) 山内一豊の甥で山内一唯(かつただ)一族の墓 元和9年(1623年)将軍秀忠から指扇領3千石の地を賜りこの地を支配その後4代豊房の時に 土佐へ移り この地は天領(幕府直轄)となる。  墓所には「丸に三つ柏」の家紋

中釘陣屋

中釘陣屋(現在は秋葉神社敷地北西の角あたり 温室が数棟建っており その場所が陣屋跡だったらしいのです。陣屋の遠藤家)想像するに 3000石となると 110m四方60~70坪ぐらいかな 家臣は20人~30人ぐらい。 

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中釘陣屋?(想像写真)

山之内家の陣屋ともなれば  2年ほど前に旗本に格上げされたのです、 左の写真の様であったのではないかな ・ ・ と思うのですが(私のひとり思いです また その頃の 陣屋の絵図面 内堀跡 支柱跡 など 陣屋に関する物 人物名簿 役職 だれか 文献等 ありましたら 教えてください。県の博物館には無いとの返事です。) いかがですか。賛成 反対 いろいろ 反対意見 募集します 又四国の土佐との友好親善が成ったらいいな。 

 (ひとつ 質問 山之内 山内 やまのうち やまうち どちらが正しいのですか? 

また 現在はだれが お墓を お守りしているのか『4、5年ぐらい前までは土佐から墓参りが定期的に来ておられたとのこと』) 土佐山内氏は宗家(本家)が「やまうち」、支封(分家)は「やまのうち」を称した  と記録にあるそうです。 


秋葉天神社の周辺には 刀鍛冶屋 桶屋の 遠藤家(現在はプラスチックの成形会社 遠藤精機製作所となっております ) 当時はこの辺りはとても栄えていたそうです 神社のお参り信者のための 宿 食事処 遊郭 駕篭や ばくろ馬子 などもあったらしいです 。


陣屋から西へ葦のはえる低地を過ぎると「辻の庚申塔」高さ2,6m(大宮でも最大)があります。市指定文化財 またこの北に「穂積(ほずみ)神社」があり 社殿には絵馬、奉納額が飾られております。太鼓、笛、琴、琵琶などお神楽道具を描いたヨコ2m30cmタテ78cmの額は明治30年に伊勢神宮に参拝の、神楽を奉納した記念の物です。また日露戦争の戦勝祈願ガラス絵馬、石川氏奉納の丸絵馬等 変り種が奉納されております。

また当地では「穂積の囃子」が伝えられております。また近くの荒川土手には 今も山内一唯が構築した 土手が残っております、後年明治30年その土手の上に 土手を作り いかに先年から荒川の氾濫に対処した事がうかがわれます。


峰岸の石塔婆塚  宝来 福寿庵の百観音 元禄13年(西暦1700年)?建立 西国、坂東、秩父、の各霊場から写し祀った百観音を中心に中尊の如意輪観音像など 103体の仏像郡 度々の洪水で大半が流出されその度に補填されたとのこと現在も念仏講が行われております。

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福寿庵 正面(平成20年)

また 宝来明神宮には山之内一唯の家臣が新田開発の成就を願って銅鏡(市立博物館寄託)が奉納されました。平成22年11月7日(日曜日) 9:00~14:00 宝来明神にて公開展示をおこなわれました。またここ宝来神明宮はさいたま市によるとー神明宮ーでなくー神明社ーとなってます、銅鏡にも神明宮と表記してあります。

銅鏡

昨年11月に 宝来の神明宮に於いて 山内一唯の家来が 新田開発を祈って “銅鏡“を奉納されました。現在は市の博物館に展示されております、今回は特別に 神明宮に帰って来ました、そこで 私 がちょっと疑問に思った事があります。銅鏡の表書きにも 神明宮と彫刻されてます。市の案内状には神明社になってます 社 と宮 の違い を 報告したいと思います。平安時代に編纂された「延喜式神明帳」では宮号がゆるされていたのは、伊勢大神宮など11社のみとされ、宮号は特別な社格とされていました。

江戸時代には八幡宮や天満宮などが次々に勧請され、神社の社格に寄らず、宮号が使われるようになってきました。伊勢神宮を勧請した神明宮も同様です。明治時代に入ると、一般的に(神)社号が定着し、宮号は後続を祀る神社や特別の由緒をもつ神社のみに使われるようになりました。

宝来の神明社の銅鏡に銘文は「宮」と記載され、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」にも「宮」と記載されていますが、明治前期に編纂された「神社明細書」には「社」と記載されています。このようなことから、宝来の神明社は近世には「神明宮」と敬称されていたものが、近世に入り、神仏分離等の明治政府の宗教政策の影響をうけることにより「神明社」の名前が定着したものとおもわれます。
(さしおうぎ歴史散策会より、指扇餅つき踊りマップ参照)

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平成22年11月7日公開の宝来神明社銅鏡

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平成12年2月10日宝来 小林氏所蔵

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